2013年4月24日 (水曜日)

終活の第一歩

「死に支度」 「終活」

Sh3h0032

…縁起でもない!!って思います?

40歳代で大病して、「死」が身近になりました。

まだ死にたくはないけど…死は怖くないんです。

いつか誰でも死ぬんだし、その分後悔しないように毎日をおくるよう努力してるし。

今日は1日、のんびり何もしない1日。…こんな日も必要!

:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+

この書きだし…意図しない方向にいってるかも!?

とにかく、自分が終わった時(死んだ時)、遺された家族や周囲の人に迷惑がかからないように…余分な気苦労をかけないように、

今の課題は「お墓」と「お寺」との付き合い方、これを解決しなきゃと思ってます。

先祖代々の墓を持つ●●家も、自分が一人娘なのでここで絶えてしまいます。

嫁ぎ先の△△家の墓と、私の実家の●●家の墓…がひとつづつ、お寺も違う場所に。

まだまだ田舎のこの辺りでは、お寺との付き合いも深く、経費がかかるのは当たり前。

今では子供の数が2人を割っているから、新夫婦で二つの墓の面倒をみるもの珍しくない話しだろう…

男尊女卑なのか、結婚すれば男性の氏を名乗り、女性が嫁ぐのが一般的…女性の実家はその時点で継ぐ者はいなくなる。

私も母とも相談して…

散骨はまだ浸透していなくて、この田舎でやってのけるには勇気がいるので選択肢にない。

だったら、●●家(実家)としては、お寺と離檀して(この時点で無宗教派です)

公共墓地に新たにお墓だけ建てようという事にしました。

娘達の時代になったら、「両家墓」として広範囲な家族で利用してくれたらいいなと思って…

お墓の正面は「ありがとう」も文字。

無宗教なので、今までの戒名はやめて、父も祖母以前も名前を彫って供養します。

後ろに石板を建てて、名前を彫ってもらうようにして…そうすれば、名字が違って入ったとしても違和感ないし。

香の花ではなくても、供える花もなんでもいいはず。

全ては気持ちの問題!

先祖に「ありがとう」という感謝の気持ちでいれば、お経を唱えなくても神頼みしなくてもいい。

父の一周忌の時に、親戚に話し理解してもらって、公共墓地の申し込みを済ませ、

お寺にも離檀の了解を得て…5月中にはまた新しい何かが始まります。

仏様も神様も味方にせず、自分がしっかりしなきゃ!!

花粉症で頭が重いうえ、あれやこれやと考え悩む「春」です。

Sh3h0038

2012年4月 4日 (水曜日)

春ですね

Sh3h0849

父の病室から観た朝焼けです。

病室を覗き込むような鳥が来て

すでに亡くなった祖母が来てるのかね…なんてウリと言っていました。

.。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。..。.:**:.。.

この朝焼けを見る4時間ほど前の深夜

意識が無い状態から、父がマバタキをして起きているように思え、

ウリ(娘)と一緒に、色々と話しかけていました。

たぶん、それが最後です。

3月28日…付き添いを 母と叔母に交代した昼過ぎに他界しました。

身支度をしてもらい、午後2時過ぎに父を乗せた車が病院を出ると、

空が暗くなりいきなりの雨でした。

3月31日の告別式でも激しい雨…でも夕方には晴天にshine

余命告知せずの闘病やQOLに疑問を持ちましたが、

今となっては コレで良かったのかなと思っています。

Sh3h0858

ありがと。ゆっくり休んでください。

また、ぼちぼち ブログ始めます (*^.^*)

こんな風に書くと誤解されそうですが、

受け止め消化して気持ちはスッキリしています。

ご心配、ありがとうございましたscissors

2007年5月30日 (水曜日)

入院中の覚書

振り返る『反省』の作業もやっと入院まできました。

今回は入院…しかも、同じく入院していらっしゃった方から、

「もう退院なの!?」と驚かれる短期間の入院生活でした。

早期癌の強みです。

でも、癌は細胞レベルですから残っているかもしれない。

今年の6月にも健康診断を受けます。

『自分の体は自分で守る』ですから…

この覚書もどなたかの参考になれば幸いです。

入院中の覚書より

2006年 8月23日(水曜日)

今日、入院。健診から3ヶ月しか経っていないのに長く濃い3ヶ月だった。

主人は急な仕事でどうしても行けないと電話があった。

明日の手術に立ち会う事ができればいいので、大丈夫。

 9時自宅よりタクシーを呼び病院に向かう。付き添いなし。

9時40分病院に着く。転がしていけばいいので赤いスーツケースに荷物を詰めた…運転手から「スーツケースを持って病院とは…何ですか?」と聞かれる。見た目元気なので「入院」なんて考えもつかないらしい。「うん、ちょっと検査入院…」という事に。

 10時受付を済ませてA3-5(6人部屋)に入室、すぐにパジャマに着替えるようにと。

(病院の寝巻きだと気分的に超病人になってしまいそうだったので、自前のパジャマ持参)

昼までは、暇…

明日の手術に備えてシャワーの予約を書きに行く。16時30分からシャワー

女性の場合 月・水・金は午前中=お風呂使用可・午後=シャワー使用可

 ストロー(術後必要)と飲料水を買いに売店に降りる。

売店内は看護師、患者、外来の人…大勢いるがレジーを打つ店員の無駄のない言動でスムーズに流れている。

テレビを観るためのカードも買った。1000円で16時間観る事ができる。

昼…カレー 病院食ではないようで嬉しかった。

プライマリーナースのMさんより、この入院予定を細かく聞く。

 夕飯後に下着にしのばせる『偽オッパイ』を作る。

パットと綿、布…必要な裁縫道具を持参してきたので、ベッドに座りながら作業。

たぶん時間をもてあますだろうと持参してきて良かった…『偽オッパイ』6個完成。

 その後、エコー検査を受ける。主治医と研修生みたいなT先生、主治医がT先生に教えながらの検査だった。6月の健診で要検査ではないが肝臓に「占拠性病変10~40mm」と記入されていた事も話し、診てもらうが夕飯を食べてしまったので次回に、今回は胸と首、脇を重点的に診る。

先生、こんなに遅くまで仕事している…

 9時消灯。

家族からの携帯メール

00:40 主人から

 「一緒にいけなくて本当にごめん…長々」と、私は大丈夫だから。

11:31 娘から 我が家の犬の写真付き

 「よッ!元気か!」

21:40 娘から

 「よッ!達者で暮らしてるかッ!!!!!

  まぁ明日ゎ頑張れよッ♪

  今日わしっかり寝ろよッ Tより」(上の娘)

 「いい夢みろよ Rより」(下の娘)

 

2006年8月24日(木曜日)

手術当日

 6時に看護師が手術着を持ってくる。

それに着替えて、荷物も一時片付ける(術後はナースステェーションの横のリカバリー室に入るため)。

 7時、主治医とT医師がくる。こんな朝から先生いるんだ…

左胸手術の時にメスを入れる位置をマジックで肌に直接書く。

乳輪を黒目に見立てると、まるで目のような、先のとがった楕円に切る。しかも内から外に向かっての15cm程のつり目だ。

脇は縦に、乳房の下は横に1本線を入れた、これは切る印ではなく、ここまで中身を採る目印。マンモトーム生検の傷口も採る。(マンモトーム生検時に癌細胞が散ると言われていたらしく、そんな事はないが念のためと説明があった。ないと言っておきながらなのでちょっと笑ってしまう。)

主治医から、「2年後に再建するんでしたよね?その分皮膚を残しておかなくちゃ…」

私「えっ、しませんよ。」  主治医「あれ?そうでしたか?」

私「それ主人ですよぉ。私はするつもりないですから、ツルッとイッてください。」

…3人で笑う。

マジックで書かれる前に、記念に写真を撮っておけばよかった。しかたなく、マジックで書かれた後に胸を携帯の画像に残す。

(携帯落として、拾ってくれた人ビックリするだろうな…)

 主人と下の娘が8時に来る。上の娘は夏季講習の帰りに学校から直接来るとの事。

「最後だから胸に触っておきな」と主人が笑って娘に言う。

私と娘から「バッカじゃないの~」と馬鹿にされつつも、主人は重さ(…軽さ?)を確かめるように触る。3人とも開き直った明るさ。

 二人の娘を育ててくれたオッパイ。

母乳が出すぎて乳腺炎になり高熱を何回か出した。皮膚が弱いので乳児の吸引力に負けてただれてしまう事も度々、それでも母乳は大事だと母乳にこだわった(栄養、免疫、スキンシップ…)。これから見栄えの事は何とかなるし、とりあえず役目は果たしてもらったのでご苦労様でした。

 9時、時間になった。

看護師、私、主人、娘の4人でエレベーターに乗り、手術室のある階まで降りる。

主人と娘とはエレベーターを降りたところ笑顔で別れる。

以前、子宮の手術の時は部屋からベッドで手術室まで運ばれたため、天井と蛍光灯しか目に入らず目が回ったが今回は歩いてきたから大丈夫。

白衣ではなく手術着を着た主治医と何部屋もある手術室の廊下を歩き、手術室に入る。自分で高い手術台に乗る。横幅が狭くて寝返りはできない(しないけどね)。

スタッフの紹介があったが、記憶にない。

点滴の中に麻酔薬を入れると同時に意識が深いところに行った。

 目が覚めた時は3階のリカバリー室、術後の患者が入る全部で4人だったと思う。

家族の呼びかけで目がさめる。(昼を過ぎていた)

返事ができないから、手でVサインをして笑顔のつもりが上手に顔を動かせない。

 胸は止血のため板(?)をあてがわれ、サラシのようなものできつく巻かれている。

深呼吸は無理。息をするのも苦しい、ハッハッと短く息をする。

1日ウトウトしている。食事もなし、点滴はずっと。

とても長い1日。

 夜、隣で手術を終えた老婆が「キャベツがどうの…」「包丁がどうの…」とうわ言のようにわめいたり、ナースコールをひっきりなしに押したり、こっちは眠れない。…足元の方で寝ている男性も「チッ、うっせえなぁ~」と度々言っているがその方のイビキもすごい。

家族からの携帯メール

06:40 娘から

 「ふッ(^v^)v」

 洗濯を干している写メ

2006年8月25日(金曜日)

 リカバリー室。朝きてくれた看護師に、違和感があるので尿をとるための管を抜いてもらいT字帯から下着に替える。

やっと自由になれた感じだが、胸は相変わらず止血のため圧迫されていて苦しい。

主治医の診察…止血を外し、やっと深く息が吸える。

傷は思っていたより平気。痛くない。

看護師が体を暖かいタオルで拭いてくれる。タオルからいい匂いがした(アロマオイル?)。

自前のパジャマに替えた。朝食はおかずだけ少し食べた。

 10時、リカバリー室から帰還。 A3-7号室 6人部屋

リハビリも早速始めるが、腕がまっすぐ上がらない。ピリピリ痛い。

腋の下に1箇所、パチンコ玉ほどのグリグリができている。リンパ節への転移を調べた影響か?(←念入りにマッサージしたら夜には無くなっていた…?)

昼に『手術が終わりご帰還しました』と友達にメールをする。

午後、赤い花のアレンジと手紙を持って母が来る。

手紙には、「だれにも頼らないけど、少しは頼ってね…」と反省分のような手紙だった。

母なりに今までを振り返ったようだ。

母が帰ると入れ違いに主人と娘達が来る。

3人とも普段と一緒で明るい。嬉しい。

2006年8月26日(土曜日)

 トイレに行っていたら、主治医の朝の回診を受け忘れた。

 午前中、ドレーンの処置、絆創膏を張り替えてもらう。T先生処置。

絆創膏は『自らの治癒力で治す』みたいに宣伝している、バンドエイドの半透明肌色の湿布のようなもの。バンドエイドキズパワーパットの大きいバージョン。

治りが早いから明日退院できるとの事。うちに帰って傷口が開きそうで怖いなぁ。

9時30分 シャワーを1番に予約…髪も手早く洗った。

その後、洗濯…ただ洗濯機に入れるだけ、コインランドリーと同じ仕組み。楽♪

14時30分 主人と娘達が自分の分までお菓子や飲み物持参(下の売店で買ったらしい)で来る。

見舞いじゃなくてピクニック気分じゃないか?病院は涼しくていいと口々に言う。

15時、○田(友達)がお見舞いに来てくれる。

リカバリー室の「キャベツ、包丁」婆さんの話や、再建するのは旦那だよって話をしてあげた。おおいにウケル。

笑うと胸全体に痛いところまでいかないが違和感がある。

○田は「暇だから」と2時間もいた。

夕食後、24時間テレビを観る。家で娘達も見ているとメールあり。

(24時間テレビで、シングルマザーで乳癌になった方のドキュメントを見てこっそり泣いた。)

 2006年8月27日(日曜日)

 傷口の確認をT先生にしてもらう。

9月1日の外来まで、このまま絆創膏は貼っておいて、もし取れてもそのままでいいと…(汗)

 10時、主人が迎えに来る。

同室の方々、ナースステーションでお礼を言って、受付に降りて会計を。

今日は休日なので1万円内金で後日診察日に残金を支払うようにとの事。

家に着き、洗濯…干すのは娘達に頼む。

昼食…作る気はないので、主人・娘達とファミレスで済ませる。

薬局で絆創膏などの買い物を済ませ帰宅。シャワーをあびて休む。

主人は東京に戻った。

昨日より今日のほうが、腋の下が痛い、ピリピリする。

少し体液も溜まっている様子。

しばらくは食事の支度は母がしてくれると言っていた、有難い。

Ts320120

その後、9月4日(月曜日)より仕事・家事復帰。

主治医は1ヶ月ぐらい仕事を休むのが常識と思っていたのか、

1ヶ月後の診察の時に「もう仕事も行っていいですよ」と…

(ありゃっ?!( ̄▽ ̄;)

どうやら、仕事復帰が早すぎたもようだが、

バタバタしていて忙しいぐらいの方がかえって不安から離れていられたので良かった。

反省のお付き合いありがとうございました❤

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2007年5月27日 (日曜日)

告知とセカンドオピニオン

今回も、思い出しながら、

当時のメモを見ながら書きました。

仕事をして、通院して、家事をして…

東京に出向き…ある意味、一番充実して行動できていたかも。

自分の記録として残しておきます。

…参考になれば幸いです <(_ _)>

告知当日からセカンドオピニオンまで

 7月上旬、本人への告知は淡々としたものだった。しかし主治医はとても気を使って言葉を選びながら説明してくれた。

マンモグラフィとマンモトーム生検の結果からいえば全摘が望ましいと、温存しても癌の取り残しができる可能性がある…温存なら経過を見ながらの放射線治療・抗癌剤治療なども必要になるだろう…という内容だった。

抗癌剤の辛さは知り合いから聞いて知っていた。その抗癌剤に打ち勝つ精神力がなかった事、また日常生活を極力変えずに済む方法(=全摘)を選んだ。

とにかく、癌は早期になんとかしなければ叔母の二の舞になるという気持ちもあった。

いまでは医療も進歩しているので焦る事はないのかもしれない、だが相手が体の中に潜む癌なだけに油断してはいけないと…

 今まで一人で通院していたので、主治医から家族に説明したいと言われた。

一応その場から主人の携帯に電話をして日程を調整する(動かせない海外出張が入っていたので)。

「今日ではなくて今度結果がでるのだけど、家族と一緒の方がいいと思うから」と告知されたのを隠してそう伝えた。

 黒と出てから、インターネットで調べたが、時間もなく曖昧な断片だけの知識では余計に混乱するだけなので、(面識のない)ある企業のピンクリボン担当者(Iさん)へコンタクトをとった。今考えれば火事場の馬鹿力というか無鉄砲もいいところであるが、藁をも掴む心境だった。

 主人はしばらく海外出張中。干渉されないので、これ幸い東京に出向きIさんから今時の乳癌事情の教えを請う。それ以来今でもIさんにはお世話になっている。

そこで紹介していただいた先生のいる病院(センター)でセカンドオピニオンを受けることに決めた。

患者会やNPO法人など、力になってくれる団体がある事もIさんから教えて頂いた。

 主人には申し訳ないが、すべて事後報告である。

 出張後に主人と二人でS病院の主治医からまた告知を受ける7月下旬。

主人の方が私より物分りが悪かった…仕方ない、信じられなかったのだろう。今まで私ひとりで駆け回って、ろくな相談もせず告知なのだから。

 その時に一通りの検査結果を聞き、主治医にセカンドオピニオンを申し出ると、快く引き受けてくれた。

この時点で執刀はこの先生にお願いしようと決めていた。

仮予約として手術の予定は祖母の初盆が終わって1週間が経った8月24日にした。

娘達も夏休みだから家事を分担してもらうのには都合がいい。学校が始まる9月までにはなんとかしなくては。

 セカンドオピニオンは手術方法(全摘)が本当に適しているのかを確認したかった。

主人と一緒に2回目の告知を受けた帰り、両親に聞かれてはまずいので家からではなく、喫茶店で携帯からセンターへセカンドオピニオンの予約を入れた。

8月に入りすぐにセンターでセカンドオピニオンを受けた。これには主人も同行した。

結果、温存も同時再建も難しいとの事。もう一度センターでマンモグラフィを四方八方から撮り資料を目の前にしての説明だったため、納得いくものであった。

持参したS病院の資料も全てセンターで見せてもらった。紫色に染色された自分の癌細胞も顕微鏡でみた。

吹っ切れた。主人も吹っ切れたと思う、主人は諦めたといったほうがいいか…同時再建を望んでいたから。

 娘二人への説明は簡単だった。事実をそのまま伝えた。

落ち着いている私に安心してか、必要以上に不安になる事もなく「頑張ってきなよ」ぐらいの態度だったが、かえってそれが有難かった。

 

 両親へは祖母の初盆が終わり、片付けが済んだ時点 入院を1週間後に控えて伝えた。

主人も娘達も居合わせた中で話した。

母には「そんな大事なことを…ひとりで背負って黙っているなんて」と泣かれたが、父は相変わらず頼りのない態度だった。

両親には他言は厳禁だからと念を押しておいた。

 

 同情もごめんだし、自分がとやかく言われるだけならいいが、両親であったり、主人、娘達に「マリラさん、乳癌ですってね。」なんて、その矛先が向けられたら悔しい。

特に主人が他者から言われるのは辛いだろうと思う。女を捨てた妻みないに言われたらどうだろう。自分なら「勝手に言ってな」と言えるが、主人は当らずも遠からずで苦しむだろうな。そこまで考えてしまうと夫婦としてやっていける自信がなくなるので、極力考えない、成るようになると今も思うことにしている。

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お付き合いありがとうございます <(_ _)>

2007年5月23日 (水曜日)

健診から告知まで

6月を前にして勝手に「反省強化月間」にしています。

もうすぐ、健診から1年。また健診が6月にあります。

いままでの事を思い出しながら真面目に書いてます。

これからのために…

今思えば、あの頃は一杯一杯だったなぁ…

健診から癌の告知まで

白黒はっきりするまではだれにも言わない、黒であっても言えないと思っていた。

 

 訳あって自分の両親と同居している。暮らしている中でこんなに仲の悪い冷戦状態の夫婦は見たことがない。原因は父の態度が悪い、母親が精神的に苦労している姿を幼い頃から見て結婚するものじゃないと思っていた。何度となく夫婦の危機を一人っ子である私が子供なりの方法で救った(今思えば救わなくて良かった)…『子は鎹』という重役を背負っていたし今も背負っている。そんな両親だ。

今でも私が一緒に住んでくれなかったら、父とは暮らせないと70歳ちかくなる母はいう。

 主人は単身赴任で東京にいる。月に1、2度 出張にあわせて帰ってくるぐらい。

主人とは同級生だったので、対等意識があり頼るとか頼られるとかではなく夫婦として一緒の歩調で並んで歩いて行きたかったし、今もそう思っている。

離れている主人にはまだ言えない、電話で話せるような事でもないし。

 

 主人は磯野家のマスオさんと同じように嫁の両親と同居してくれているわけだ。私も子供が男の子だったら、永遠単身赴任の主人にかわり男の子を育てる自信はなかったが、二人とも娘だったので、母親(私)の背中見て育ってくれればいいやと両親と同居する中で考えている、主人は嫁の両親と同居するより単身赴任の方が気も楽かもしれない。

 余談だが、まだ田舎の家長制度が若干残っているこの地方では「男の子=跡継ぎ」で大変喜ばれる。跡継ぎ・墓守なんて誰でもいいだろう。自分が骨になったら、そこらに撒いてくれればいい。仏壇や墓に祭ってもらうほどの人間でもないし。(…といっても主人と私の家にそれぞれ仏壇、先祖の墓がありどうしたものか)

嫁の親と二世帯でありながら、主人だけ単身赴任…正直、主人にはこうなる以前から申し訳なく思っている。

 市町村単位で行う健康診断の結果は大体1ヶ月後に自宅に郵送される。

 昨年6月上旬に健診を受けてから、その3日後に健診を請け負っている健診センターから夕方6時過ぎに電話があった。

異例の速さ、しかもこの時間の電話という事にただならないという緊張感はすでにあった。

「触診では判らなかったのですがマンモグラフィの映像で再検査となっています。」という内容だった。

 以前やはり健診で発覚した『子宮頚部異型上皮』の手術をうけたS病院にかかることを電話で告げ、検診センターから早急に紹介状を送ってもらう手はずをとった。

ちょうど、その日は夜、活花教室があった。休むとただならない緊張感を自分自身認めてしまうようで悔しかったので、内心「落ち着け、落ち着け」と言い聞かせながら普段どおり出掛ける。

師匠さんに「知り合いが健診結果を電話でもらったのだけど、電話なんてありえる?」と白を切って聞いてみた。通常なら健診結果は1ヶ月後郵送だから。

師匠の母親がやはり市町村の検診で3日後に電話連絡があり、すぐ病院にいったらそのまま入院だったと聞かされ、待っていたわけでもないのに『ついに来たか』と癌を意識してしまった。

6月中旬 S病院の乳腺外科に予約した。

担当医は「まだ、検査してみないと何とも言えませんから…」と、そりゃそうか…

仕事の都合をつけ、最短に各種の検査が終わるよう、担当医の予定に滑り込ませてもらった。

 まだ誰にも言えない。ただ子供同士仲良しのお母さん(私も友達)には再検で検査に度々行かなくてはならなくなった事だけ伝えた。塾の送迎…学校の行事などこれから頼まなければいけなくなるだろうから。

 マンンモグラフィ・エコー・CT・血液検査…7月入りに細胞診(マンモトーム)を受ける。最新の検査らしい…

検査にはH医大の医師が担当する。S病院なのになぜH医大なのだろうと思ったが、S病院のHPの中で主治医がH医大で講師をしている事も知っていたので、それつながりなのだろうと思った。とにかく結果さえ正確に出してもらえばいいのだ。

 検査の間、狭い検査室にH医大のO医師と検査技師、実習生の他、主治医それから同じ乳腺外科のS医師も立ち代り入ってこられ「頑張りましょうね」と声をかけられる。励まされて嬉しいが、励まされすぎてこれでは癌確定じゃないかと冷静に悟った。

 主人には「再検査だけど大丈夫だと思うよ」と言っていたが、この日の感じから「もしかしたら悪いかも、まだ確定じゃないけどね。両親には言わないからお義母さんにもまだ言わないでね」と主人がうちに帰ってきた時に伝える。気丈だった自分。(振舞ってたのかな?)

 両親には言わない。その年は8月に祖母の初盆を控えており、両親ともそれで頭が一杯、しかも初盆前に知ったら法事に出席した親戚中に泣きの涙で語られてしまう。同情だけは絶対にいやだ。

それに祖母が亡くなってすぐ、母は鬱病になりそれから難聴になってしまった。

原因は父だった…父の言葉を聞きたくないための難聴と鬱。精神的なDVとまで言っても過言ではないので母には精神内科を受診させ、やっと良くなってきた頃だった。余計に言えないし、結局入院ぎりぎりまで告知しないでいた。

それまで、「以前の乳腺炎のせいかな?良性みたいだよ」とごまかしていた。

 

娘たちには正直に検査の様子を話した。同性であるし…しかも癌になりやすい遺伝子を受け継いでいるかもしれない…隠さない方がいいと。

 楽天家の娘なので気持ち的には複雑だったかもしれないが平常心でいてくれた。

 この時点で不安はあったが、癌だとしても泣くほど辛いような感情や後悔はなかった。

 毎年、健康診断を受けてきて、やるべき事はやっていたという気持ちがあったと思う。早期治療の部類だし。

 

叔母の死が底辺にあり自分の体を自分で管理して限られた時間であっても悔いなく過ごす事ができると思うと不謹慎だが有難くもあった。

癌になったことは悔しいが、今 自分の体に起きていることが隠されることなく医者から告げられ、どういった治療を受けるのか選択権も自分にある事が嬉しいと思えた。

…雰囲気で癌だなと告知前に思った。

個人的な反省にお付き合いくださってありがとう <(_ _)>

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2007年5月21日 (月曜日)

毎年の健康診断

去年の健康診断から1年…

弱音は吐かないつもりで、この1年が過ぎた。

今思えばあんなに無理しなくて良かったのにとも思えるが、その時は一生懸命だった。

ブログも始めのうちは、すごく意地はってたし…

この1年間は、人生の転機と言えるかもしれない。

自分の中で呟いて言わなかった事や、何年か先の娘に伝えたい事もあり…

あえてブログに書かなくてもいいかとも思ったが、何かの参考になるかもしれないし、反面教師でもいいので。

毎年の健康診断に思う事…

叔母を癌で亡くした。

ちょうど私が高校入学をひかえた頃だった。

 私が生まれた当時、叔母は高校生でまだ自宅にいた。父の兄妹の一番下の叔母である。生まれて初めての玩具も叔母が高校帰りに買ってきてくれたと母から聞いた事がある。

小さい頃は一緒にお風呂にも入っていた。叔母は腿の内側1平方cmの中に無数の鮮やかな黒いホクロがありそれを鮮明に覚えている。肌の感じも自分と似ていた。

自分が物心ついてからは「マリラはお風呂でうんちしちゃって…(大笑)」とからかわれた。朗らかな叔母だった。

 叔母は同じ町内の長男に嫁いで二児の母になった。上の子が保育園に入った頃、よく実家(うち)に帰ってきては、下の子供を祖母に預けて横になり休んでいた。体がだるいとよく言っていた。体調不良でも医者には行かずに健康食品に救いを求め、良くなるはずはない。義理の姉である私の母に連れられ大きな病院に行ったがそのまま入院する事になった。すでに癌に侵され手のつけられない状態になっていたのだと思う。

 当時、癌は家族にだけ知らされ、患者本人には治る病気だと告げられるご時勢だった。

叔母は30歳になるかならないかの年齢で若さゆえ余計に病名は伏せられた。癌と知っているのは周りの大人だけ…中学生の私ももちろん知らなかった。

 1年以上入院していただろうか。

叔母から時々手紙をもらった。

下の子供を実家であるうちで預かっていた事もあり気になったのだと思う。(母として当たり前だが)

「マリラ、元気ですか。なかなか良くならないけど治療頑張っています。○と○(自分の子供)の事よろしく。一緒に遊んでやってね……」と。

入院中も「○が小学校に上がるからランドセルを買いに行ってやりたい。下の○は保育園に泣かずに行くかな…」と言っていたと看病帰りの祖母や母が話していた。

 私は治るものだと思って疑わなかった。年齢の順に逝くものだと思っていた…そうでないケースもいくつも知っているのに、まさか叔母に限ってそんな事はないとうい気持ちだった。薬(抗癌剤)の副作用で体調が悪く、腹水も溜まるようになり、栄養の点滴をしても痩せる一方でモルヒネも打っていると子供ながらに聞いていたがそれでも治ると思っていた。

お見舞いに行った記憶がない、というより、行かせなかったのではないかな。

高校受験間際の叔母からの手紙では「受験番号が私の病室と同じだから、大丈夫絶対合格するよ。みんな元気な人ばかりだから。(千円同封)これでチョコレートでも買って、受験勉強頑張りなさいよ…」と、ベットからも起き上がれないのに。

高校に合格して新品の制服がきた春休み、叔母は逝ってしまった。

新品の制服で葬儀に参列したのを覚えている。

告知を受けずに闘病していた叔母、後半は気づいていたのではないだろうか。

それでも周りが気を使い大丈夫だと励ます。叔母も大丈夫を演じていたのではないかな。

残酷だ。

とくに叔母が亡くなった歳に近づくにつれ、あれで良かったのかと疑問に思い始めた。

告知の仕方にもよるが、残された時間を子供のため、旦那さんのために使えたかもしれない。…それでもどちらがいいかは判らない。

 自分は健康診断を必ず受けようと、子供や家庭を持った親としての責任だと思っている。

子供が自立するまでは健康管理を怠らないようにする。せめてもの親の務め。

万が一、結果が悪くても、真正面から立ち向かってやると意地でも思っている。

自分のためにも、そして叔母が身をもって教えてくれた事を無駄にするわけにはいかないから。

30歳…叔母と同じ年齢になった頃から健康診断を受けている。

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6月まで反省強化月間です

昨年 2006年

6月初旬に健康診断を受けてマンモグラフィ再検査、

7月に乳癌の告知

8月24日 手術(左乳房全摘) … 現在はホルモン療法中 

もうすぐ1年になるけれど、正直なところや、これは自分自身 残しておきたいなと思った事を言葉や文章にしていません。

日記も、シリアスになりすぎると自分で照れちゃって「バッカじゃん」とすぐ止めてしまう質なんですよ。

急ですが(歳のせいか忘れっぽくなったので)…

文章にすることで昇華する事もあるだろうし、

自分が見えてくる事もあるだろうから1年間の反省を残しておきます。

たぶん いや絶対、ズッシリと重い内容なので (^^ゞ、その点ご理解のうえお付き合いくだちゃい。ヽ(^。^)ノ 

もちろんスルーもありです。重いですから…

( 重い 近頃の体重と一緒でね (>_<) ほっといてっ )

Ts320370 目の保養=りんごの花

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